成都から康定へ移動!そして、東チベットに入る前に知ってほしい事【世界一周24ヵ国目中国】

2018年7月4日





本日は成都を去り、東チベット最初の都市康定を目指します。




そんなに書くことないので、ちょっとチベットと中国について書きましょうか。

あんま政治的なことを書くのは好きじゃないけど…だって旅しにくくなるじゃん


いろいろ調べて興味深かったのと…


私がこれから、ちょいちょい怒る機会があります。



この前提条件を知っておかないと、「何で怒ってるんだコイツ」という変な人になるので、ちゃんと書いておこうと思います。




これは、私が東チベットに行きたかった理由でもあります。


飛ばさず読んでくれると、嬉しいです。






まず知っていてほしいのは、東チベットは四川省に組み込まれています。(他にも、雲南省や青海省などにもチベット人はいます)


チベット自治区ではありません、です沢山のチベット人がここに住んでします。




私が巡った限りだと、今の東チベットはかなり中国化されていました。








中国内のチベットの始まりの話



チベットはその昔、一つの独立国家でした。


しかし、もともとは中国だったという理由で、強引に中国に組み込もうとしたのです。



一番の初めは、中国のチベット侵攻後の、1951年に結ばれた十七か条協定です。
これは、中国が武力をちらつかせ、強引に締結をさせました。

ここには、「ダライラマの主権を認める」や「宗教・習慣の尊重」「寺院の保護」などが記載されていた。

いい協定だと思いますよね?



けど、これを中国はことごとく破ってきたのです。



そして、何よりこの協定には、今の東チベットに当たる土地はチベット自治区に加えられてなかったのです。




その為、当時の東チベットでは反乱がおきました。
私がこれから行く、四川省内のチベットの土地で「カム反乱」がありました。別名「20年戦争」とも呼ばれています。
※反乱は他にも、自治区の中心地ラサやアムド(今の青海省)でも反乱がおきています。

特に、リタンをなどのカムの男たちは好戦的で、中国になかなか服従しなかったため、凄惨を極めました。

各地でゲリラ戦が行われ、おまけに標高の高い高地戦。
中国側の人民解放軍も相当苦戦しました。



しかし、数で勝る人民解放軍に勝てるはずがありませんでした。

僧坊は焼き払われて、チベット人女性が強姦されたり、男性は断種、僧や尼たちも侮辱されました。
そして、拷問や公開処刑が何千と行われました。その中には、生きながらに焼き払われた人もいます。

そうして、中国により「平定」(中国側はそう主張している)されたチベット。
しかし、中国の監視の目が続きました。





中国はまず、チベット人の一部を中国側に取り込みました。
そして、狩猟用に使っていた銃を回収させ、タムジンと呼ばれる集会を開かせました。



タムジンは、いわゆる私的裁判の場でした。
中国の統治に不満を持つ者をあぶりだし、また名家の人間にいわれのない「罪」を自白させました。
そして、強制収容所に送ったり、内容によっては処刑させられたのです。

タムジンの場では、他の人は被告を罵倒しなければならず、それをしないと、次は自分が裁判にかけられることとなるのです。



そうして、チベット人同士に互いを監視させたのです。


こうして、中国がチベット人を何人も強制収容所送りにして、管理するようになってきたのです。


そして、追い打ちをかけたのが、大躍進政策文化大革命
これはチベットだけでなく、多くの中国人も犠牲となっています。





大躍進運動


大躍進運動とは、毛沢東が1958年から1961年の間施行した、農業と工業の大増産計画です。
目標は、「数年でヨーロッパやアメリカの経済を追い抜くこと」

しかし、内容を見ると、大変お粗末な内容であります。


まずは、工業面。

毛主席が着目したのは「鉄」。そして彼の考え方は非常に単純でした。


「中国国民の総力戦で鉄を生産すれば、ヨーロッパに勝てるはずだ!」

ということで、製鉄の知識のない素人までが動員され、製鉄に動員され製鉄作業に当たりました。




最初に、製鉄に必要なのは溶鉱炉!なので、各地に多く溶鉱炉が建てられます。てか、溶鉱炉方式が原始的方式
しかし、溶鉱炉は掘っ立て小屋の様な粗末な物、そして作るのは素人。



おまけに、過酷なノルマが課せられている為、農耕器具や生活用品に至るまで、ありとあらゆる鉄が溶鉱炉に放り込まれました。

まるで、戦時中の日本です。



結果、生産された1117万トンの鉄の内、60%が全く使い物にならない粗悪品。
しかも、使用用途も販売方法も全く考慮されていなかったため、原料・燃料を含め、タダの資源の無駄遣いで終わってしまいました。




また、この時大量の森林が伐採されました。それにより近年になっても、中国では毎年洪水が起こっています。



そして、農業面。

これは2つ政策があります。


四害駆除運動密植・深耕運動です。



一つ目の、四害駆除運動は、「ハエ・カ・ネズミ・スズメ」これらの害虫・害獣を大量駆除しました。


これの何がまずかったかと言うと、スズメがまずいのです。
農作物を食い荒らすスズメ、この鳥が北京市だけでも、3日間で40万羽も駆除された。

しかし、これは生態系を大きく崩すこととなります。
スズメは、農作物も食い荒らすが、害虫も食べるのです。

この駆除により、ハエ・カ・イナゴやウンカの害虫が大量発生!
かえって、生産高が上がらない、という事態に陥りました。




そして二つ目の、密植・深耕運動。

まず「密植」とは、簡単に言うと「種や苗を密集させて植えること!」
これは、同じ種の種は、お互いの成長を阻害しないという理論に基づいています。

なので、狭い間隔で種を植えても問題ない、という説です。

つまり「いつもの土地でも、種を狭い間隔で植えてしまえば、2倍、3倍…もしくはそれ以上の収穫高が見込めるじゃん!」
と、農業を知らない毛主席は考えたのです。

小学生でもわかりますが、そんなはずありません。




まあもう一つも、同じ感じですが「深耕」は、「深く植えれば植えるほど、根が強く張るはず!」



と言って、2メートルもの穴を掘って種を埋めました。



できるわけがない。



そして、これぞ共産主義!
人民公社を設立、農村を大きいグループに分ける、コミューン化を図りました。
つまり、いくら頑張っても、取り分はみんなで山分け、となってしまいました。

これにより、勤労意欲も大いにそがれて、生産効率が下がってしまいます。
おまけに、農業素人たちが農地を作った為、手も付けられないような様になってしまいました。


このような、生産意欲をそぐ政策、併せて、非科学的な農耕方式が取られた為、当たり前のごとくその年から、凶作続きました。


この農業・工業政策。
更に輪をかけて悪いことがありました。


生産高の詐称です。

このちょー非科学的な生産方法で、生産量が上がった場合は昇進が約束されていました。

当たり前ですが、このやり方ではどこも凶作です。

なので、そこの地区の責任者である共産党幹部は、地区中の作物を1カ所に集めて、写真撮影するなどして、中央に虚偽の報告をしたのです。



その為、中央の報告と地方の現実の生産量には大きなギャップが生まれてしまいました。


中央は、報告を受けて、海外に作物を輸出。

地方は、最初にした虚偽の報告から、生産高を下げるわけにはいきません。
そのギャップを埋めるために市民が食料として残している分を、農村から搾取を始めます。





これらの末に起こったのが、大飢饉です。
この結果、中国全土で、3500万人以上の餓死者を出しました。


そして、この飢饉で一番苦しめられたのは、チベット族だと言われています。
大躍進政策は中国に組み込まれたばかりの、チベットにも適応させられました。



この時は、すべて配給制度でした。

皆が公共食堂に行って食べるのです。

その時代、チベット族には1日当たり180gの、草や葉っぱ、木の根が混じった小麦が支給されるのみでした。

おまけに、チベット族の住むところは高山地帯。もともと作物が育ちにくいのです。
チベット人たちが、この政策に苦しんだのは夕までもありません。



そして、この政策により、チベット族たちがいる青海省では人口の45%に当たる90万人が死亡、四川省では900万人が死亡したと言われています。




これにより、毛沢東は国家主席を辞任。
彼は、大変カリスマ性のある革命家だったのですが、政治家としての才能がなかったのですね。


そして、この大躍進政策が国民の不満を募らせ遂には、中国を混乱の渦に陥れるのです。






文化大革命


文化大革命の始まりは、大躍進政策で毛沢東が失脚した所から始まります。

代わりに国家主席には、劉少奇りゅうしょうきが成ることになりました。劉少奇は市場経済を導入し、少しずつですが、経済は回復しようとしていました。



それが面白くないのが、毛沢東、
「自分の共産主義が否定され、資本主義にされようとしている。」
と劉の政策を否定しました。

彼は権力を取り戻したくて、仕方がなかったのです。



そして、当時学生たちが組織していた「紅衛兵こうえいへい扇動して、中国全土で多数の死者を出す、中国史史上最悪の歴史的事件が起こったのです。




紅衛兵たちは元々、原理主義的な毛沢東の考え方に賛同して作られました。

彼らの多くは「労働者、貧農・革命幹部や革命軍人、または、それらの子供たち」から成っていました。
彼らの攻撃対象は「反革命分子」つまり知識人・富裕層・反革命分子たちでした。

そして、彼らとそして家族を迫害し、果ては殺戮まで行われたのです。



最初は毛沢東も、紅衛兵の指揮を取れていました。

しかし、次第に紅衛兵内で派閥ができ、分裂していきました。そして、互いにどれだけ残酷なことをしたか競うようになった時、最早毛沢東が彼らを統制するのは不可能となってしまいました。



この文化大革命によって、被害に遭ったのは何も中国人だけではありません。


新疆ウイグル・内モンゴル・チベットなどの中国内でも、少数民族の住む地域では、民族の拷問・虐殺が行われました。


中でもひどかったのが、内モンゴル自治区と、広西チワン族自治区(中国の南部にある)。特に、広西では、虐殺の上、共産党幹部が中心となり、食人まで行われていたそうです。



文革では古い慣習も悪と見なされていた為、多くの文化財が取り壊されました。

チベット仏教が根深い、チベット人たちの土地では、僧坊が取り壊され、殺戮が行われました。大躍進や反乱時に残されていた僧坊も殆ど取り壊されてしまいました。



チベット人は文化や信仰を根こそぎ壊されて、貧困にさらされました。

追い詰められたチベット人達は蜂起しましたが、結局押さえつけられてしまいました。



この文化大革命という、混乱は1966年~1976年のおよそ、10年間続きました。
そして、1976年毛沢東が死去したことにより、収束を向かえます。



被害を受けた人は1億人。
そして、死者は、中国の発表では、170万人。しかし、実際は1000万人以上いたのではないかとも言われています。

後々、共産党はこの革命を「完全な誤りであった」と認めています。





その後のチベット


話は少しそれましたが、反乱・弾圧・大躍進・文革と多くの圧力にチベットはさいなまれてきました。

この間に死んだチベット人は、120万人に上ると言われています。


それほど、中国は根こそぎチベット文化をぶち壊していったのです。



2010年代になってからでも、中国政府を批判する表現や発言をした者は、拘束されています。
そして、チベット人たちは、心のよりどころであるダライ・ラマ14世の写真を飾ることができません。





最近でも、幾度か抗議活動が行われています。

一番代表的なのが、焼身自殺です。

2008年から、抗議の形として焼身自殺が起こっています。



理由の一つとしては、今までは、抗議の形は「武力」でしたが、仏教的な「武力」を使わない抗議に変わったのもあります。

もう一つは、周りの人が止めることができないからだそうです。
抗議が止められることがないから…



そこまで、彼らは激しく中国に対して憤っていることがわかると思います。



そういう抗議活動の中、ようやく国際社会が動き出しました。

2012年、国連はチベット自治区の人権状況を調査する方針を明らかにしました。


しかし、私が見る限り、徐々にチベットは中国化の一途をたどっています。
状況はさして変わっていないのです。







中国がチベットを欲しい理由


なぜそうまでして、中国はチベットを欲しいのか。

理由はいくつかあります

・石油や鉄鉱石、レアメタルなどの、鉱山資源が豊富だから
・黄河と長江の上流がチベットにあるので、そこを他国に管理されるのを嫌った為。
・エベレスト、つまり世界一高い山が中国にあると言いたいので(エベレストはネパールとチベット自治区の国境にある)
・チベットの独立を認めると、ウイグルや内モンゴルなど、他の地域にも独立運動が起こる危険があるから
・チベットの背後にある敵、インドを警戒している為。だからインド政府はダライ・ラマを保護しているのです。



あと、調べていて興味深かったのが、「パンダ」


これチベットの物と言われているんですね

パンダの生息地域よく見ると、殆どチベット人たちの土地なんですよね。


今、日本は年間1億円でパンダを借りていますが、果たして本当にいいのか?



その高額なお金の使用用途は、よくわかっていないようです。

これは世界自然保護基金(WWF)でも指摘されています。
その内容に関するWWFのホームページはこちら


私は、今疑問に思っています。本当にパンダを借りる価値がるのか…




結局言いたいこと



長くなった、なるべくわかりやすく書いたつもりだけど、これでも書ききれないぐらい削ってるので、詳しく知りたい人はググってください。

これを書いたのは、ただ「中国大っ嫌い!」って書きたかった訳ではないです。


それに、中国人でもいい人はいるし、まったくそんなこと知らない人がほとんどだろう。


そんな人に文句を言っても、仕方のない事。



この話を描く中で私が言いたいのは、要は「日本も中国という大国がお隣さんな訳だから、付き合い方を考えないといけません」ということです。




最近CNNニュースで、アメリカのCIA高官のマイケル・コリンズ氏が、習近平政権がアメリカに対して「冷戦」を仕掛けていると主張したそうだ。


記事はこちら



今までの冷戦と違い「あらゆる手段で正当な影響力と不当な影響力を行使し、公的な力と民間力、経済力と軍事力を行使して、衝突に持ち込むことなく自分の立場に関連したライバルの座を揺るがす国家。」


※CNNニュース参照



ご存じだろうか、いま日本の島や水脈が中国に買われていることを…


そして、日本の保険制度を利用して、多くの中国人が日本の保健証を取得し、数百万する手術を数十万で受けていることを…



今やチベットの話は、隣の畑の話ではなくなっている。



しかも、あの頃の中国より、人口的にも、経済的にも、政略的にもかなり上手になった中国である。


別に中国人出ていけとかいう気は毛頭ないが、中国政府とは付き合い方を考えるべきである


自分の話す言語が日本語のままでいたいならね






よっし!書き終えた!


一応、史実をもとに書き上げたつもりだけど…やばかったら削除するかもw


長い事読んでくれてありがとうございます。


では、移動の所からどうぞ!



成都から康定へ移動




朝、宿に要らない荷物を預けて、出発。
バスターミナルの真ん前にある屋台で、山椒の効いた麺を食しました。







道路にはみ出してる…




7:30にバスは出発。

9:00に休憩を挟んで、


休憩所


11:00過ぎには最初の検問に着いた。

ちなみに、東チベットには外国人禁止エリアがあるし、そもそもの政治的な問題で、検問が多いのだ。



まだ外人が入っていい地域なので、堂々とバスを降りて、検問の入り口に向かった。



私のパスポートをみながら、私に質問。



「仕事は何だ?」


「オフィスワーカーです。」
1番問題なさそうな職業を言っておく。



「ガバメントはどこだ?」



「日本です。」



そしたら、笑って通してくれた。

てか、パスポート見りゃわかるでしょ?笑


まあ、いいや通れたのだから




徐々に景色が、平地から険しい山々に変わっていく。



そして、周りを見渡すと、すごく良い高速道路が通ってる。




交通の便が良くなるって、物資も運びやすくなるけど、他の意味も混ざってるからね

もうすぐしたら、今のチベットは無くなってしまうのだろうなぁ…と思う

まあ、私の立場じゃ、「文明化するな!」だなんて、一言も言えないけどさ


ちょっと考えてしまうよね




そして、再び検問



「どこに行くんだ?」




「康定(カンディン)!」



と答えると、普通に通してくれた。

ちなみに、中国人が検問の写真を撮ろうとして、怒られてたので、取らない方が無難。



そして、13時前にはバスターミナル着。
他の人のブログより時間が早くなってる…

昔より行きやすくなったみたいね。

本日泊まるのは、貢嗄国际青年旅舎 (Konka Internatinal Youth Hostel) 

ここの3階にあります。









ログハウス風で可愛い♥


そしてこの日は、ほとんど寝ていました!


なぜなら、ここは2600m!



高山病です…w


まあ眠くなるぐらいだから、大したことないんだけど、とりあえずその日は一歩も動けなくて、宿で過ごしました。


明日から、ちゃんと観光いたします!




今日のお宿 貢嗄国际青年旅舎 (Konka Internatinal Youth Hostel)

値段忘れてしまった…





シャワー&水圧 ★★★★☆
水圧&温度共◯暖房付きで嬉しい♪
清潔さ★★★★☆
キレイ!
Wi-Fi ★★★★☆
問題ないレベル
コスパ ★★★★☆
普通

カンディンと言えばここ!受付の娘さんが日本語を話せる、アツい宿!けど今度日本に留学するから、もうすぐいなくなるかも…
けど、居心地の良さや清潔さは最高です!



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