【歴ヲタ回】ケマル・アタテュルクの生涯について【世界一周42ヵ国目トルコ】


わざわざ時間を割いてこちらのリンクに飛んできてくれて、ありがとうございます!

今回は私の尊敬してやまない、ケマル・アタテュルクについてです。


今回からオタクな内容はちょっと切り離すことにしました。

だって、いつも長くなってしまうんだもん…


今回は、ほぼ文字なのと、細かい内容は端折ってるので、大雑把な歴史を知らない人はわからないかも…



まあ、

トルコにこんな英雄がいたんだな


ぐらいで読んでくれれば幸いです。




ではでは、皆さんがハテナになっている

「ケマル」とは何者や!

という所を解説していきましょう。


トルコ建国の父「ムスタファ・ケマル」


トルコに行ったら、飽きるほど見るこの人!


この人が、世界史の教科書で習う「ケマル・パシャ」です。


日本で一番メジャーな名前は「ケマル・パシャ」ですが、

本名は「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」という名前です。

名前については後で説明します。



彼は、トルコ共和国初代大統領にして、「トルコ建国の父」と言われています。


皆さんが、

トルコでよく見かけるアルファベットの看板も


女性のヒジャブが必須ではない事も

お酒が飲めるのも


みーんな彼の功績です。


では、彼がどんな人か説明しましょう!


生い立ち


彼は1881年、今のギリシャのテッサロニカで生まれました。

両親は「選ばれし者」の意味の「ムスタファ」と名付けられました。


幼少期学校に通っていたが、授業の大半がコーランの暗記であった授業に反発。

税関職員をしてた父親の勧めもあり、西欧流の私立学校に入学したものの、父親死によって、ここも退学することになります。

そして、11歳の時、陸軍幼年学校に通い始めます。

彼は友人達と論争を繰り広げては、ことごとく論破していきます。

おまけに、無口で孤独を好む性格から、次第に孤立していきました。
しかし、数学の先生だけは、彼の才能を見抜いていました。


先生は彼に「ケマル(完全な)」という、第2の名前を与えます。



その後、彼は「ムスタファ・ケマル」と名乗るようになるのです。

陸軍士官学校、陸軍大学を卒業して

ようやく彼が、歴史の表舞台に出てくるのは、1914628日サラエボ事件をキッカケに起こった。第1次世界大戦の時です。


ムスタファ・ケマルの活躍とトルコ共和国誕生


ムスタファ・ケマルが初めて活躍したのは、私が訪れたチャナッカレ含む、ゲリボル半島。


ダーダネルス海峡は、当時のオスマン・トルコの首都イスタンブールの目と鼻の先。

ここを落とされると、イスタンブール陥落は必死でした。

そこを狙ったのが、イギリス・フランスの連合軍。

1945年ガリポリ上陸作戦を決行します。(ガリポリはゲリボルの英語読み)
当時のイギリスの大将は「チャーチル」

ムスタファ・ケマルはもともと、予備軍のような部隊を任されてたのですが、たまたまそこが上陸ポイントの1つとなります。

彼は、司令官の指示を待たずに応戦!


彼はいつでも最前線に立ち、兵を鼓舞し続けました。そのせいで、飛来した銃弾が彼の腕時計を打ち砕いたことがあったとも言います。


しかし、その姿こそが、兵の心を打ち、信頼を集めるキッカケとなりました。


結果、イギリス・フランスの連合組に勝利。


これは当時のオスマン・トルコとしては、かなりすごいことで、それまで連戦連敗ぐらいの、くっそヨワのオスマン・トルコが勝ったとなって、世界の国々はかなり驚きました。



反対に、チャーチルは「絶対勝てる」と言われていた戦争に、沢山の戦死者を出したことから「ガリポリの肉屋」と揶揄されたそうです。


この功績が認められて、彼は「パシャ」つまり「将軍」に昇進します。



その後、東部へと派遣されましたが、そこでも勝利!


しかしながら、ケマル・パシャの勝利だけでは、補えないほどオスマン・トルコは負けが込んでいました。


おまけに、彼も病で戦線を一年間離れることとなってしまいます。


結局第1次世界大戦は、当時の同盟国であったドイツと共に、オスマントルコは敗者で大戦を終えてしまいます。


そして、オスマン・トルコに残ったのは多額の賠償金と、領地の分割でした。



トルコ共和国誕生



ケマル・パシャが療養を終え、戻った祖国は酷いものでした。

連合国に言いなりの政府、おまけに当時のスルタンは降伏の条件に、ちゃっかり自分の財産の保護を条件に入れていたのですね。

痛い目を見たのは民衆だけ。

そんな、政府を見て、ケマル・パシャは大いに失望しました。
「もうこの国はダメだと」

そして、スルタンにより未だ戦況の続く、アナストリア地方に派遣された時、彼は軍や民衆に解放戦争を呼びかけていくのです。


それを聞いて、スルタンが怒らない訳がありません。スルタンはケマル・パシャを逮捕しにかかりますが、流れはケマル・パシャに向いていました。


丁度その時、ギリシャがエーゲ海沿岸部の都市に侵略し始めたことにより、民衆が反発。各地に抵抗組織がでてきました。
もちろん民衆が降伏時、自分の地位と財産を守ったスルタンに手を貸すわけがありません。

なので、勢いのあったケマル・パシャ抵抗組織が流れ、自然と人が集まってきました。


こうして、トルコの国土を回復させる、祖国解放戦争が始まったのです。



解放軍は、ケマル・パシャの指示によって次々と勝利を収めていきます。
奪われた領土も復活していきました。



そして遂に領地は、沿岸部はイギリスがダーダネルス海峡を残すのみで、全て復活!


解放戦争を勝利で終えることとなり、改めて講和条約が結び直されることになりました。




そこで、呼ばれたのが、未だ地位に居座っているスルタンとムスタファ・ケマルの2つの陣営。

それを聞いた民衆は不満でした。



「スルタン」もう必要ないじゃん!
お前なんでまだいるんだよ?


その世論をうまく利用して、彼は「スルタン=カリフ制」を廃止を主張します。


そして、その後の議会で「スルタン=カリフ制の廃止」は圧倒的に多数で可決されました。



当時のスルタン「メフメット6世」はイギリスに亡命します。


これによって、ついにムスタファ・ケマルを大統領としたトルコ共和国が誕生するのです。





名言「私がトルコだ!」


オスマン帝国末期から少しずつ、近代化の流れがありました。


しかし、それを一気に進めたのは彼でした。

まず、ムスタファ・ケマルが始めたのは、学校での宗教教育宗教学校の廃止、宗教省、宗教裁判所を無くす事でした。


そうすることによって、政治や生活から宗教を一掃させようとしたのです。

しかし、この事は一部の改革を望まないものから、反発を生みます。


まあ、昨今の中東の事件からわかるように、宗教というのは根深いものです。



宗教的指導者や、野党からなる反ケマル派です。長く生活に染み付いた宗教はなかなかはがれません。

そんな急速な改革に、反対派はついていけず…



そして、遂には大統領暗殺未遂事件となります。



事は成りませんでしたが、それの発覚と共にムスタファ・ケマルは、反対派を逮捕、そして、処刑する事に決めたのです。



その名前の列にはかつての同志の名前もあり、彼にとっては大変心苦しいものだったといいます。



処刑の翌日、彼はおよそ6時間の大演説をしました。


そして、その長い演説の最後ををこう締めくくるのです。


『私がトルコだ!』



これだけ聞くと、彼がやばい独裁者に聞こえるかもしれません。

しかし、彼のその後の政治活動を見ると、そんなこと思う人は誰一人いないでしょう。

事実、その発言にトルコ国民が沸いたと言われています。



またもっと後の話ですが、ムスタファ・ケマルは、政治バランスを測る為、穏健派野党の育成を図ろうとしていました。


果たして、独裁者がこのような事をするのかどうか、私は疑問に思います。
こういう言い方もアレですが、その時の国民の事を考えたからこその、処刑も仕方なしの選択ではなかったのかとも思います。


この事と、結果から彼は「数少ない成功した独裁者」だと言われることもあります。


ここまでのことを、一人でやってのけたのは史上稀ではないでしょうか?



トルコの近代化と彼の死因



そして、敵がいなくなり、ムスタファ・ケマルはさらに改革を進めます。

もう文句言う人はいませんからね…


まず彼が行ったのは、アラビア文字を廃止して、ラテン文字、つまりアルファベットに変えます。

もともとトルコの言葉には、アラビア文字が合わなかったのです。けど宗教的理由から、そうなっていたのですね。


そして、男性のターバンやトルコ帽(フェズ)を宗教的服装であると禁止。


女性のヴェール着用は禁止こそしなかったものの、好ましくないものとしました。



女性にしたのは何も服装だけではありません。
いままでイスラム世界ではありえなかった男女平等を推し進めました。

今まで、女性にはなかった選挙に参加する権利、参政権を認め、更には今まで認められてなかった公務員や弁護士などになれる、職業選択の自由も認めました。


今、トルコの女性が胸を張って歩いているのは彼のおかげなのです。

法律も今までのイスラム的なものから、スイス民法をほぼ直訳したものに変えました。



これらより、国民の生活はどんどん西欧化していきました。

最後に創姓法が施行され、ヨーロッパの様に国民全員が姓を持つことになりました。
実は、イスラム世界はすべて「あだ名」で人を呼ぶことになっており、戸籍謄本をつけるには、なんとでもごまかしがきくので不便だったのですね。

この時、ムスタファ・ケマルに贈られたのが、「父なるトルコ人」を表す「アタテュルク」です。


彼がどれだけ尊敬されてるか、分かる名前ですね。





さてさて、そんな彼ですが、1938年11月10日、志半ばに死んでしまいます。



彼の死因は、激務と過度の飲酒による肝硬変です。


彼は、ラクと呼ばれるトルコの焼酎をとてもよく飲んでいました。

その量、純エタノールにして毎晩500ml


彼は生前医者に

「肝硬変の原因は、ラクではない」

というウソ診断書を書かせようとしていました。



間違いなく死因の一つでしょう。

まあそうでなくても、彼の睡眠時間は1日4時間。

そして、改革の断行と重圧、酒でも飲まなければやっていけなかったのでしょう。


こうして、彼は57歳の激動の人生を終えました。


その後は、彼の大統領時代、首相を務めていたイスメト・イノニュに変わりました。


生前、ケマルは自分を神格化することを非常に嫌っていました。
確かに、折角政教分離したのに、肝心の自分自身が神のような存在になってしまったら意味ないですからね。




しかし、その願いもむなしく、今のトルコは見渡せばケマル・アタテュルクがいます。


と同時に、彼の意思も続いていて、彼の望む近代化したトルコが実現しています。




彼がいなければ、間違いなくトルコはもっと違った国になっていたでしょう。





そんな彼の命日11月10日には、今でも全国民が仕事の手を止めて黙祷をささげます。





死後80年たった今でも彼は国民の英雄で、トルコの父であるのです…


彼の命日
アタテュルク廟にて


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