カンボジアの悲しい歴史「キリングフィールド」と「トゥール・スレン虐殺博物館」【世界一周22ヵ国目カンボジア】

2018年6月3日




おはようございます。

朝は爽やかに麺を食べて、スタートです。


シェムリアップからプノンペンに来ての初日。

久しぶりに一人で、屋台にご飯を食べに行きました。







食べ方に困っていたら、隣のおじさんが食べ方を教えてくれました。
みんなでワイワイご飯もいいけど、こういう瞬間に旅の面白みを感じます。




今日はアンコールワットに次いで、カンボジアのメインの訪問地「キリングフィールド」「トゥール・スレン虐殺博物館」へ行きたいと思います。



上の文字読んでのごとく、本日の訪問地はなかなかヘビーな内容となっています。


繊細な人や優しい人は、少し重い内容かもしれません。


読まなくても構わないです。
私もあまりに重くて、回るのにとても時間がかかりました。



けどできれば、知ってほしいと思っています。この出来事は、ほんの40数年前の出来事なのです…


最初に訪れたのは、キリングフィールドでした。



まずは、時代背景からお話ししましょう。


時は、ベトナム戦争のとき、隣国カンボジアにも同様に爆弾が落とされていました。
なぜなら、カンボジア経由でベトナム軍がゲリラ活動をしていたからです。

その為、土地は荒れ、人々は困窮し、貧困にあえいでいました。




その時、カンボジアの政権を握ったのが、「ポル・ポト」でした。

皆さんもこの一見ポップな名前、一度は世界史で聞いた事があるはずです。


けど実際、何をしたのか知らない人も、多いのではないでしょうか?



1975年、度重なる戦火に弱っていましたカンボジア、そこをポル・ポトとその配下の「クメール・ルージュ」がカンボジアの首都プノンペンを制圧しました。



ポルポト政権はまず、住民を首都から田舎に強制移動させました。



なぜそんなことをするのか?

疑問の方も多いはずです。


ポル・ポトが掲げていたのは、「共産主義」。その中でも、「農民たちが一番エライ」という考えを持った「原始共産主義」でした。

民衆はすべて農民に帰るべきだという考えの元、都会にいる人たちを強制移住させたのです。
首都は、数日にしてゴーストタウンになりました。

計画的でない強制移住は、家族をバラバラにし、国民は悲しい思いをしたそうです。




しかし、本当の悪夢はこれからでした。



彼の政治理想は、非常に極端でした。
「原始共産主義」それは、「原始の時代に戻す」

簡単に言うと、「病院、学校、貨幣、恋愛、宗教、私的財産など、そういうものは必要ない」という、誰もが理解に苦しむ考え方でした。

病院、学校、銀行は廃止、もちろん貨幣がなくなるのですから、私的財産はすべて取り上げられ、すべての人は、農村で働くこととなりました。


時代は、1975年。日本には山陽新幹線が開通して、コンビニのローソンが始めてできて、世間はテクノロジーの時代を歩もうとしている時。

そんな時代の、全く逆を行く考え方をポル・ポトは理想としていたのです。




そんな、彼にとって、農民以外の職業は邪魔ものでした。

農民には知識は必要ない。そして、「無知であれば、洗脳しやすい。政権の考えを埋め込みやすい。」

そんな彼は、知識人たちをする大量虐殺するようになったのです…

知識人と言っても、医者・弁護士・教師・僧侶だけに留まりませんでした。



例えば、「髭を生やしている」とか「眼鏡をかけている」とか「手がやわらかい(農業に従事していないから)」という、何とも希薄な理由でとらえられ、殺されました。

また報復を避けるため、その家族を子供を含め皆殺しにしたのです。



さらに政権の魔の手は、海外にまで及びました。海外で勉強してるカンボジア人に、こう手紙を送ったのです。


「祖国のために、あなたたちの知識を貸してほしい」

彼らは喜んで祖国に帰りました。

しかし、一歩踏み入れたら最後、帰らぬ人となったのです…



その虐殺の現場が、キリングフィールドでした。

このキリングフィールドカンボジア国内で300もの数があります。
私が訪れた「チュンエク」にあるキリングフィールドが、カンボジア国内で一番大きい処刑場でした。



では、一体何人の人が政権によって殺されたのか。


ポル・ポト政権がその権力を握ってたのは3年8ヵ月その間に殺された人は、その数200万人もしくは、それ以上といわれています。

その数、およそ当時のカンボジアの人口は約800万人。
当時のカンボジア人の、およそ4人に1人に当たる人たちが殺されたのです。



殺され方は非常に残虐でした。

弾薬がもったいないということで、人々はナタや斧、クワなどの農耕器具で殺されました。
いわば、「殴り殺される」と言ってもいいでしょう。
処刑された人たちは、どの人も長い時間苦しみながら死んでいきました。



キリングフィールド内を歩くと現れる、このミサンガのかかった木。

これも処刑の道具として使われたのです。


この期の犠牲になったのは、まだ歩けもしないような、赤子たちです。

赤子たちは、足を持たれ、この木に頭を打ち付け殺されたのです…



しかも、母親の目の前で…




そんなことをして、周辺住民は気が付かなかったのか…

虐殺は夜に行われました。ここではその時間になると、常に大音量で革命軍の歌が流されていました。

そう、断末魔の声をかき消すためです。

周辺住民には、革命軍が集会を行っていると、思われているに過ぎなかったのです。





そして、もう一つの場所「トゥール・スレン虐殺博物館」



ここは、ポル・ポトが来る前は高校でした。

しかし、知識が必要ないと考えていたポル・ポトが来た後は、恐ろしい所に変わりました。

ここは、キリングフィールドに人を送るために、拷問する場所と変わったのです。



中は写真禁止…なのですが、いずれにせよ重たすぎて写真を撮ることができなかったでしょう…



教室は、木やレンガで仕切られ、留置所に変わりました。



鉄棒は、人を気絶するまで吊り下げる道具に変わりました。

しかも、気絶した人を糞尿の入ったカメに入れて起こし、再び吊り下げたのです。

それも何度も何度も…


そして、日に何度も行われる拷問に、耐えきれなくなった人たちは、「外国のスパイ」だとか、「国家に反逆を企んでるとか」いわれのない罪を認めてしまいます。



そうして、彼らは処刑場となるキリングフィールドに送られていったのです。




こんなひどい事を、誰が実行していたのか?


実は、カンボジア国民なのです。

それも、14際にも満たない、年端も行かない子供たちばかり。


ポル・ポトの言う「資本主義という、悪に染まっていない」、農村部や貧しい子たちを洗脳して、彼の思想に染めていったのです。

彼らは無知がゆえに、彼の思想をうたがうことがありませんでした。

そんな子供たちを、国の重要なポストにつけて国を運営していました。



ポル・ポトが残した有名な言葉があります。
「たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ」


トゥール・スレンが発見された時
施設内で拷問を受けて亡くなっていた人達のお墓
あともう少し早ければ…


ポル・ポトが国を支配し3年8ヵ月の後、カンボジアから亡命した国民が、ベトナム軍と共にカンボジアへ攻め込みました。

子供だらけだった兵士たちはあっさり倒され、ようやく悪夢の時代が終わりました。

その時のカンボジア国民の85%が14歳以下の子供だったそうです…



皆さん、この歴史的事実ご存じだったでしょうか?

私もネットなどでザックリは知っていましたが、改めて見て、驚きと悲しみを隠せませんでした。

キリングフィールドにも、トゥール・スレンにも、当時の事が分かる。写真や絵がたくさん残っています。

こんなに長く書きましたが、事実の50%もかけていないと思っています。


現実はもっと悲惨です。


こんな近年でも、このような悲しい事実が起こってしますのです。

皆さんは、「もうこのご時世にこんなこと起こらない」と考えてるかもしれませんが、もしかしたら、テクノロジーという波に乗って、事実が捻じ曲げられてしまうかもしれません。


キリングフィールドの音声ガイダンスの最後に、生き残った人の言葉がありました。
「拷問や処刑を実行してた人達は、みんな口をそろえて、『やらなければ、殺されていた!』と言う。しかし、私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。そう言ってしまったら、人間の道徳はどこに行ってしまうのだろう…」


そう、これは忘れてはいけない歴史の一つなのです。

決して繰り返さないためにも…


旅メモ

ホステルのツアーにて送迎 7ドル3人の場合
キリングフィールドとトゥール・スレン虐殺博物館の2カ所

キリングフィールド 入場料6ドル
日本語の音声ガイド付き
実際には「入場料3ドル+音声ガイド3ドル」らしいですが、音声ガイド付きをお勧めします。

トゥール・スレン虐殺博物館 入場料5ドル
日本語の音声ガイドは別料金 3ドル


にほんブログ村 旅行ブログ 世界一周へ
世界一周ブログランキングに参加しています。
お気に召したら、上のボタンを押してもらえると嬉しいです。

コメント